四大道の歴史

四大道の起源四大道の発展

四大道の起源

 松下松蔵先生(忠孝敬神崇祖之祖神様)は熊本県の長洲にお生まれになり、ご幼少の頃からどうしたら両親が喜ぶかとそればかりを考えられるほど親孝行な方でありました。また、生まれつき、御身体が弱かったためか、好んでお寺の説教を聞き又神社仏閣に参詣し、祈祷師の門を叩かれるなど信仰に心を傾けられました。

 しかし、いかなる教えにも納得する事が出来ず、親が育ててくれたこの体に気がつき、『見たこともない神仏の教えは理屈である。真理ではない。太陽の恩、自然の恩を悟り、目に見えるものを信じなくてはならない。』と悟られました。

 大正8年10月に神眼神耳をお開きになり、現在・過去・未来の三世を自由自在に見透すお力をお持ちになりました。その後、数多くの偉大な実例と共に四大道(忠孝敬神崇祖)の尊さを世に示されました。


忠孝敬神崇祖之祖神様
(初代管長 長橋靖彦 謹写)


初代管長 長橋靖彦 謹書

四大道の発展

 初代管長 長橋靖彦は、小中学校で教鞭をとっていた時、人間は学業の成績のとおり必ずしも出世しないことに疑念を抱き、人間にはそれぞれ、その人にふさわしい進むべき道があって、それを正しく教え導いてこそ始めて指導者としての資格がある。それが出来るためには、人生の根本的なもの、絶対的に間違いのないものを学び取らなければならないと気づき、宗教、易、手相、姓名学などあらゆる分野の研究をしました。


初代管長 長橋靖彦 

 しかし、どれも納得が出来ずにいたところ、昭和6年雑誌『主婦の友』で「神か人か活殺自在の霊力者、長洲の生神様」との記事に目が止まり、妻と共に長洲の松下松蔵氏を訪ねました。すると「あなたが来る事は3年前からわかっていた」といわれ、松下先生のお教えに強く衝撃を受け、忠孝敬神崇祖こそ人の踏み行なうべき天与の道であると悟り、その教義を受け継がれました。

 昭和7年より金沢にて本格的に布教活動に打ち込み、同15年に初代管長が宗教結社「金沢講社」を組織し、同27年に宗教法人の認証を受け、昭和36年現名称「四大道」と改めました。同56年初代管長 長橋靖彦が死去し、現在第二代管長 長橋定男が継承しています。